2012年7月31日
「忘れた唄と三姉妹」(映画『ギリギリの女たち』レビュー)
小林政広監督が語るようにさまざまな試みがされている『ギリギリの女たち』は、冒頭35分間の長回しシーンから始まる。黒いコートに身を包んだ長女、ワンピース姿の次女、ジーンズの三女と奇しくも出生順に登場することになる三人だが、この順番は姉妹関係や立ち位置を語る上でも必然といえる。

15年前に三女ひとり残して先に家を出た長女と次女が、行き場がない中で相次いで震災の傷跡が残る被災地の実家を訪ねてくる。気まずく、どこかよそよそしく、つっけんどんな会話が続いているところに現れた三女は、今まで溜め込んでいた思いや憎しみ、怒りを姉たちにぶつけずにはいられない。

父が亡くなり、いちばん年長だった故に面倒を見ていた介護から解放され、夢を追いかけるために渡米した長女。昔から「どんくさく、マザコンから好かれる」などと言われていたものの唯一、結婚をして子どもを産んだ次女。年の離れた末っ子のために、「どうでもいい娘」と軽んじられていた三女。

うまく立ち回ることができず不器用に生きてきた姉妹たちが、精神的にも肉体的にもギリギリの状態に追い詰められ、互いに本音を吐露しぶつかり合う中で、かたくなだった三女は「年下は死ぬまで年下。年上の命令に絶えず従う」という次女の言葉に抵抗を感じながらも渋々受け入れて行くようになる。

一般的には、保守的な長女、自由な次女、追従型の三女といわれる三姉妹。実際にはこのようなステレオタイプな物言いでは割り切ることのできない複雑な要素が姉妹には存在しているが、それぞれが自分をさらけだしてひと晩を過ごすうちに、カナリヤが忘れた唄を思い出すかのように、一緒に暮らしていた時代の空気に包まれ始める。そこには、三姉妹の関係性を表す「競争」や「信頼」や「共存」などが漂ってくる。
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